今では広く一般的にも使われるようになっている肢体不自由という言葉が生まれたのは、 今から七十年前、 昭和三、 四年ごろのことです。この言葉を提唱した人物こそ、 我が国肢体不自由児療育事業の始祖といわれる高木憲次 (一八八八〜一九六三) です。憲次は明治二十一年、 東京で開業医の次男として生まれました。幼いころから病弱で、 心臓病を患っていた憲次は 『色白で虚弱な子ども』 だったそうです。
第一章 「幼年時代から学業を終えるまで」、 第二章 「教療所の夢を描く」 では、 憲次の生い立ちと、 肢体不自由児とかかわるきっかけとなった出来事、 さらに肢体不自由児の医療と実態調査を通じて、 肢体不自由児の教育、 医療、 福祉に深く関心を持つようになった経緯を明らかにしています。
大正十一年、 憲次は留学先のドイツで、 肢体不自由児の療育施設クリュッペルハイムを見学し、 日本にもこのような施設を設立すべきとの強い信念を持って帰国します。第三章 「クリュッペルハイム設立の提唱」 では帰国後、 三十五歳にして東京帝国大学医学部整形外科教授に就任した憲次が、 肢体不自由児の療育施設の実現に向けて奮闘した様子を伝えています。
第四章 「『肢体不自由』 の提唱と整形外科の進歩」 では、 それまで 「奇形」、 「不具」 等の名称に代わって、 「肢体不自由」 を提唱した経緯、 また肢体不自由学校の設立までの努力、 クリュッペルハイム設立の機運が高まりつつも、 紆余 う よ 曲折があった様子を伝えています。
第五章 「整肢療護園の建設」 では、 療護園が肢体不自由児を対象とする施設になった経緯、 そして念願の開設、 さらに東京大空襲による焼失について述べてあります。
第六章 「療護園の復興と戦後療育の基本づくり」 では整肢療護園の復興再開までの道のりと、 児童福祉法や身体障害者福祉法の制定時の経緯、 桐が丘養護学校設立の経緯、 日本肢体不自由児協会設立の経緯など戦後の療育の基本が簡潔にまとめられています。
第七章 「医学的業績と晩年」 では高木憲次の医学的業績についてふれるとともに、 脳卒中で倒れた憲次が、 自ら起立歩行訓練、 言語訓練を行い、 重症な身体障害の克服を率先垂範した様子が記述してあり、 読者の胸を打ちます。
生前の憲次に薫陶を受けた方はみな今でも 「高木先生」 と畏敬いけいを込めて語ります。著者もその一人です。著者の資料的正確さのエピソードは以前、 村田茂著 『新版 日本の肢体不自由教育 その歴史的発展と展望』 の紹介の時にもお伝えしたとおりです。
著者があとがきで述べているように、 本書は日本肢体不自由児協会編 「高木憲次 人と業績」 (一九六七) を底本として、 要約したものです。底本も著者が執筆しているだけに、 大変読みやすく、 一気に読了してしまいました。 なお、 著者の肢体不自由教育における長年の功績に対し平成十一年度の高木賞が贈呈されることが決まりましたことを喜びを込めてご報告いたします。
東京都立城北養護学校教諭 庄司 伸哉
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